発言場所 | データログ minus alpha ver.0.23 |
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肩書 | 創作家(推定) |
管理者名 | 佐藤 晃亮(Sato Kosuke) |
概要 | 1998年4月3日生
小学校卒業手前、変声期が訪れた。彼にとってそれは、人生初の、考え方まで変えてしまうほどの大きな変化であった。 急激に声が低くなったことで周りから認知され、いじめの元となっていた泣き虫というレッテル(事実)が人々から剥がれたことを喜び、この声を生かさない手はない、この声が自分を生かすのだ、などと確信し、中学二年の頃(すなわちアニメを知る頃)、声優を志した。 高校は放送部がある場所を選んだ。もう自分は声優になるしかないのだと己や他人に言い聞かせる日々であった。たとえ放送部の活動の中で、物作りに魅せられ始めていたとしても。 高校を卒業し、地元の専門学校に通い(この間に試作音楽シリーズが始まる)、卒業し、東京の養成所に通うこととなった。彼は「とりあえず一年」と言った。とりあえず一年は続くだろうと見ていた。創作に魅入られていることを視界の端に追いやって。 さて、東京に出た途端、正確には一人暮らしを始めた途端に、彼は気付いてしまったのである。自由というものに。自由とは、すべての選択が自由であるということ。そして、やろうと思えばなんだってできるのだということ。とりわけ創作活動の時間がたっぷり取れると知ったとき、彼は「とりあえず」の重さを悟った。なんと、養成所のレッスンが苦痛に感じ始めたのである。 (ただし創作活動だけが理由ではない) そしてついに、これ以上は何のためにもならないとして、半年を待たずに養成所をやめてしまったのである。彼はこう言った。「挫折したかった」と。「夢は叶えるか挫折してなんぼだ、これじゃあ俺は離脱でしかない」と。 彼は、なんとか生きる理由を確定させようと、存在証明になればと、創作修行の準備に入った。これが、自身の創作意欲の存在を許した瞬間とされている。 そうして始まった創作修行に(ガイハラスが)励む中、次第に彼は、創作活動を「足枷」と呼ぶようになった。やめ方が分からなくなったらしい。作りたいものは作るべきものとして、作りきらなければ死ねないらしい。 日和見男に幸あれ。 |
管理番号 | コード | 名称 | 最終更新 |
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FL-0401~ | pc | Pack-cage | 2023/09/10 |
FL-0821~ | iam | Interlace alarm Melted | 2023/11/22 |
FL-9673~ | fa | Fill Alert | 2023/03/25 |