ヘッドフォン

西日の強く射す駐輪場で、細く一本足で立つ時計を見上げた。文字盤を覆うガラス板に太陽が反射して分針の位置は曖昧だったが、時針がわずかに「5」よりも下を指していたことは見て取れた。

この春高校三年に進級したAは、右足の裾に一、二歩ごとに触れるペダルを感じながら、錆びたトタン屋根の長く伸びる影から這い出し、裏門へ向かった。砂利道の、小石が押し合い軋む音が、二本のタイヤで線のように、また二本の足で点のように、あたりへ広がった。

裏門を抜け、Aは自転車にまたがった。門前はいわば住宅街の入り口で、歩道沿いに名も知らぬ木々が一定間隔で連なる片側一車線の道路がある。秋には色づくが、それ以外の季節はひどく殺風景だ。喫茶店も無ければコンビニもなく、結果的に高校生をたむろさせないという、地域住民への配慮となっている。この禁欲的な道は、大学受験を控えたAにとっても都合が良かった。帰るたびに悠々と学生を満喫する姿を見るなんてまっぴらごめんだ、あったはずの自分を見ているようじゃないか、と。


こうして帰りが一人なのは、自転車で片道三、四十分の道のりのせいである。誰と帰ろうが、どのみち十分もすれば道を分かれ、帰路の大半を一人で走ることになる。その虚しさといったら無いので、こうしてわざわざ五時頃に帰るようにしているのだ。一年の頃は「ちょっと用事があるから」と言って友人を先に帰らせ、あてもなく校舎をぶらついたのち、帰宅ラッシュが落ち着いたのを確認してから帰るようにしていたが、それから二年もたった今では、終礼が済めばそそくさと図書室へ向かい、儀式的に来るべき時を待つのみである。

この学校に通うにしては間違いなく遠い距離だが、都会の大人が一時間も電車に揺られていることに比べれば大したことはないと、友人やクラスメイトの間で通学時間の話が出る度にAは鼻で笑っていたものだ。今はそんな話すら出てこないが。


Aは左右から車が来ないことを確認し、自転車をこぎ出した。普段ならこのまま住宅街を突っ切るのだが、この日は禁欲ロード沿いを北上する必要があった。そして駅を越えなければならなかった。その先にある銀行へ用事があるのだ。Aは駅前の騒々しさを思い起こし、軽く憂鬱ながら聞き知らぬ木々の中を走っていた。

やがて駅の騒々しさが近づき、Aは路肩に一時停止し、辺りをちらちら確認しながら前かごのリュックに手を伸ばした。ファスナーを開け、五秒ほど中をまさぐって取り出したのは、黒いヘッドフォンだった。先日Amazonで購入した得体のしれないメーカー(アメリカ企業らしい)の物であるが、必要以上の低音が耳に心地よく、密閉感も癖になる。またBluetooth接続であることと併せてお気に入りの一台であった。三千円ほどで間違いなく良い買い物をしたと、ヘッドバンドの黒い光沢に思いを馳せた。

Aはヘッドフォンの右耳のスイッチを入れ、僅かに耳にかかった髪の毛を後ろへそらし、耳を覆った。微かに聞こえていた鳥の鳴き声や、遠く聞こえていた犬の唸りや、風でしつこく揺れる木々の騒めきは、一瞬のうちに消え去った。静寂の中で己の鼓動だけが力強く、それがこの世界の唯一の存在であるかのように崇高に思えた。

己が心に縋りついてばかりもいられないので、Aは胸ポケットに忍ばせたスマホの再生ボタンを押した。プツッという音の後、静寂一刹那。バスドラムの等間隔の地響きが始まり、間隙を縫うようにしてシンバルが叫び、スネアドラムがスタッカートを効かせ駆け出した。


一曲目のギターソロが始まるころには駅前に着いた。遠目から見えていたよりもよほど混雑していて、帰る人間と帰ってきた人間とで道を埋め尽くす勢いだった。全く醜い光景を目の当たりにしてもなお依然として、Aの耳を軽やかに宙を舞う電気的サウンドが覆い尽くすのだ。Aはニヤケ顔を悟られぬようにさっさと狭い地下通路を通り、駅の北側へ出た。人の量が全くと言っていいほど変わらないせいで、一瞬自分を疑いさえしたが、目的の銀行が右前方に見えたので一安心した。


用事を済ませ銀行を出たAは、正面の一方通行の道を横切り、そのまま線路沿いへ向かった。五分も走ると角にコンビニのある交差点が見えてくる。駅の北から帰るときは、大抵ここを曲がる。信号は赤。視界の下方に横断歩道の対岸で信号待ちをしている男性が見えた。身長は170といったところ。身に着けているスポーツウェアに相応しいガタイの良さである。距離が縮まるにつれ、軽く眉間にしわを寄せている表情も見て取れた。角刈り頭がよく似合い、いかにも体育教師のようだ。

Aははっとして目を見開いた。クラス担任のBだ。かの美人Cさえも彼のクラスと知った瞬間に目元が暗く陰った(韓流ドラマの見過ぎによる寝不足だとの噂もある)と言われるあのBだ。体育教師、女子バスケットボール部顧問で、説教の断片に理不尽さが垣間見えることで評判だ。彼を恐れる(むしろ遠ざかる)生徒は数知れず、Aももれなくその一人である。まさか学校から既に二十分はゆうに経っているこの地で出会ってしまうとは。Aは衝撃のあまり、イントロ前の語りを聞きそびれたことにさえ気付けなかった。

Bが道交法違反を見逃すはずもない。運の無いことに、それを悟ったのは横断歩道の前に止まってからだった。

Aは己の心臓がひどく高鳴っているのを感じた。軽く震える手でとっさにヘッドフォンを頭からはずし、前かごのリュックに放り込んだ。ロックンロールは風に去り、電車が走り去ったあとの轟音の破片だけが耳をかすめた。視線はリュックとBを行ったり来たりした。横断歩道を渡らず遠回りしてしまおうかとも考えたが、それではまるでBから逃げているようで、仮に気付かれているのならより一層悲惨な末路だろう。かといって、表情を悟られずにすれ違い挨拶できる余裕が果たしてあるだろうか。

車が一台、また一台と目の前を走り抜けていく。エンジン音が波のように引いてはかえす波が引く度に、リュックの中で、歪んだ高音をめいっぱい押し出して、ヘッドフォンがAの機微を貫いた。